武蔵野市の桜まつりとともにNTTの技術史料館を見学

当サイトの記事には広告が含まれます

 2018年4月1日は武蔵野市役所近辺で桜まつりが開催されていました。その桜まつりに合わせて、NTTの武蔵野研究所に併設されているNTT技術史料館が一般公開されていました。

 土日祝日はお休みですので、日曜日に公開されるのは非常に貴重な機会です。

 市役所の横にある桜並木を通り抜けながら武蔵野通研に向かいます。

 するとNTT技術史料館の建物が見えてきました。

 建物の中に入って最初に目立ったのが、丹頂型公衆電話ボックスです。この電話ボックスはALWAYS 三丁目の夕日にも登場したそうです。

 こちらはモールス電信機です。

 

むかしの電話機です。実際に話すことができます。

 

こちらは銀座最後の電柱です。

 地下に行くと壁には電話の歴史が絵巻物のように解説されています。絵が主体なのでとてもわかりやすいです。

 電気信号が電線上を流れて行くと、どうしても電線の中にある不純物などの影響で抵抗を持っているので、電気が熱に変わってしまい、徐々に減衰していきます。そんあ電気信号を減衰させないための一つの技術が装荷ケーブル方式です。

 日本で自主開発された長距離伝送技術である無装荷搬送方式というものもあります。東海大学を建学した当時、逓信省の技術者であった松前重義という人が提案した方式でした。

 このNTTの技術資料館などがある広大な敷地は戦前は中島飛行機の工場があったところです。また、松前重義はこのNTT技術資料館の近くに国鉄スワローズの球場を誘致したことでも知られています。ただ、その球場はそんなに長い間は使われなかったようです。

 こちらの写真の中で奥に見えるのが昔の電電公社の電気通信研究所です。そして手前にあるのがグリーンパーク球場です。

 最初の電報で使われたブレゲー指字電信機です。

 磁石式電話機と磁石式手動交換機です。

 新聞社では戦前から写真を画像通信で送っていたそうです。ファクシミリの原型といえば良いのでしょうか。

 戦時下で登場したT型自動交換機です。電話オペレータが手動で交換しなくても良いというのは画期的だったのではないかと思います。

 逓信省から電電公社に看板が架け替えられています。

 続いて、移動通信の時代が始まっていきます。この携帯電話は1970年に大阪で万国博覧会が開催される1年前に、当時の電電公社に突然声がかかり、日本電気と一緒に一般的な部品を使って急遽開発されたとのことです。会場では無料で利用できて人気があったようです。

 1984年に世田谷電話局のとう道内で発生した火災は、当時、ショッキングな事故でした。周辺の家庭用電話が利用できなくなったほか、一部の銀行のATMも利用できなくなりました。

 続いて電電公社からNTTに看板が架け替えられています。それまでは電話を使う人は加入者でしたが、日本電信電話株式会社になってから、お客様と呼ばれるようになりました。民営化の象徴でもあります。

 災害時などに衛星通信を使って仮設電話を設置するためのパラボラアンテナです。

 こちらの技術史料館があるNTT武蔵野研究開発センターは中島飛行機武蔵製作所組立工場の跡地になります。戦後、1950年に電気通信省「電気通信研究所」として開設されました。のちに逓信省を経て日本電信電話株式会社となっています。2001年に老朽化のために取り壊されるまでは、中島飛行機武蔵製作所の地下道も残っていました。

コメント